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サイレントブルームーン

 青白い世界が僕を包み込んでいた。
 ここは一体どこなのだろう。住宅街の一角に僕はぽつんと立っていたのだけど、周りの家はどれも見覚えが無い。物音は一つもしなかった。静寂が空間を支配している。時刻は夜更け頃なのだろうか、辺りは青く仄かに明るかった。
 ただ突っ立っているだけでは、何事も進まないのは僕の経験から予測できる。僕はとりあえず、歩を進めた。僕は右手で、左手の小指と薬指を軽く押さえる。僕は中学生のときの交通事故で、それらの指の神経が切れてしまって、動かなくなってしまった。幼い僕は、こう刺激を与えていたらいつか回復してくれるのではないかと期待して、時折右手で力を加えていたけれど、一向に指が動こうとすることはなかった。残ったのは、こういう風に指を押さえる変な癖だけだ。
 しかし、いつまで歩いても見覚えのある景色は見えてこない。人が一人も歩いていなくて、世界が僕だけを残して終わってしまったのではないかという心持ちになる。空を見上げると、青っぽい月がぼんやりと浮かんでいる。肉眼でクレーターまで見えてしまうほど、綺麗な空だった。
 不意に、近くで人の声が聞こえた。おーい、おーい、と誰かが呼んでいる。僕は唐突に聞こえた声に、少し嬉しくなってその声がする方向に向かった。そこには黒い猫がいた。民家の塀の上に凛と立ち、こちらをじっと見つめている。
「お前は自分の罪を知っているか?」と黒猫は語りかけてきた。その澄んだ声に僕は少し驚いた。
「僕には罪なんてない」
「お前は何かを忘れてはいないか?」
 その質問に僕の胸はずきんと痛んだ。僕はその時点で、この猫が一体何を言いたいのかわかった。忘れるわけはない。忘れられないから僕は苦しんでいるんだ。
「どうせ夢の中の猫のくせに生意気だな」
 青白い世界に僕と猫だけが佇んでいた。
 
 僕は中学生のころ、ギタリストになりたかった。元々父が趣味で、よく僕に聴かせてくれていて、その音色にすっかりと魅了されてしまっていた。小学生のときから、父にギターを借りて演奏していたが、僕は生まれつきで手が小さくてあまり上手に弾くことができなかった。中学校にあがって、次第に僕は成長してきた。体はもちろんだけど、僕の関心は手に集中した。前までとは違って、ギターが弾きやすい手になってきた。僕はそれがとても嬉しくて、あの頃は飯も食わずにギターにかかりっきりだった。
「お前、ギターやってるんだって?」
 僕はある日、同じクラスの男子生徒に話しかけられた。名前は長田という。話を聞くと、どうやら彼もギターをやっているらしくて、すっかり意気投合してしまった。それから僕らは学校が終わると、僕の家で二人でギターを弾いた。長田はとても上手かった。彼の手は並の男性よりも大きくて、さらには音作りのセンスも兼ね揃えていて、この人はギターを弾くように生まれてきたのかもしれないと思わされるほどだった。僕は彼に負けないように猛練習した。彼が難しくて中々上手く弾けないと言っていたフレーズを僕が弾けたときなんかは嬉しかった。僕らはお互いに感化され合って、高めあった。彼は僕の友人であり、良きライバルだった。向こうも僕のことをきっとそう思ってくれていただろう。
 そんなある日、僕は交通事故にあった。僕を轢いた車の運転手はどうやら酒を飲んでいたらしい。命には別状な無かったが、僕は命のようなものを失ってしまった。左手の小指と薬指が動かなくなってしまったのだ。僕は絶望した。もうギターを弾くことができなくなってしまった。もう僕の人生には欠かすことのできない重要な物だったのに。なんてこの世の中は理不尽なんだと僕は呪った。僕がギターを弾けなくなったことを聞いた長田が僕の悲しみを共有して一緒に悲しんでいたけれど、僕はそんな彼に強く当たってしまった。お前は普通に弾くことができる。お前には何もわからない。そう言ってしまった。彼は僕に謝って、その場を立ち去って行った。その時の彼の顔を思い出すと、いまでも心が痛む。

 僕が退院して、普段通り学校に通えるようになったころ、音楽の授業である一人のギタリストが紹介された。ジャンゴ・ラインハルトというギタリストで、彼は幼い頃火事によって左手の小指と薬指に障害が残ってしまったらしい。僕はジャンゴの存在に、ひどく障害を受けた。もしかしたら僕もまだギタリストであり続けることができるのか? という思いが頭に過ぎった。
 しかし、決心することができなかった。もし試してみて、もう二度とどんな奏法でも弾くことができなかったら、僕は一体この先どうすればよいのだろう。絵や小説を書いてみようとも考えたが、僕はそれらが魅力的とはまったく思えず、やはり僕にはギターしかないと再確認されて、一層苦しくなった。
 僕が悩んでいると、長田が僕に言った。
「お前ならできるさ。俺がリズムギターを弾くから。一緒にやろう。いや、俺が一緒にやりたいんだ」
 僕は長田にひどい言葉を投げかけたのに、こう言ってくれた。僕は柄にもなく泣き出してしまって、長田にからかわれた。
 僕はまたギターを始めたが、やはり指二本で弦を押さえて弾くのは難しくかった。しかし、そんな僕に長田はいつまでも熱心に付き合ってくれて、僕は頑張ることができた。こいつと一緒なら僕は前と同じように、楽しくギターを弾くことができると、僕は大いに希望をもった。
 あるとき長田が死んだ。ギターの音色がうるさいとアル中の父親に殺されたらしい。僕は再び絶望して、ギターを叩き折った。

 僕はそれから死んだように生きていた。21歳のいま、ただ命のろうそくを惰性で溶かしているだけの日々が続いている。
「僕はもうギターなんか弾けない」と僕は黒猫に乱暴な口調で話しかける。
「でも、あの頃はもう一度弾こうとしていたじゃないか」
 この黒猫はやけに生意気だ。もうちょっと僕のことを考えて喋ってはくれないか。
 どうせこれは夢なんだ。猫が喋るわけがないじゃないか。それに僕の傷口を広げるようなことばかり。ああ本当にひどい夢だ。早く覚めてくれないかな。
 僕がそう思っても、世界はこのまま続いていた。猫はこちらをじっと見つめ続けている。
「あいつがいないと僕はもう駄目なんだよ。わかるだろ」
「そんなわけない。お前には才能がある」猫はそう言った。その言葉に僕は目を大きくした。それはかつて長田が僕によく言っていた言葉だった。お前には才能がある。俺にはわかる。と長田はよく僕に投げかけた。
 僕が言葉を失っていると、猫は塀からふわりと降りた。そして猫の姿は、僕がまばたきをしている内に人の姿に変わった。その姿は紛れもなく長田、その人だった。僕はひどく衝撃を受けた。同時に、夢の中だとはいえ、久しぶりにその顔を、表情を見られて、僕は泣き出してしまいそうになった。
「また泣くのか? あいかわらず泣き虫なやつだな」
 長田がぱちんと指を鳴らすと、いつの間にか僕らはギターを持っていた。長田がギターを弾き始める。それは昔僕らが一緒に練習した曲だった。そのリズムに合わせるように僕がメロディを弾く。夢の中だから上手に弾けたりするかなあと思ったけれど、まったくそうではなかった。思えば僕がこうギターに触るのは中学生のとき以来だ。あれから6年ほど経っている。僕はたどたどしく弾いて、何とか長田のギターについて行った。
 楽しい。僕が感じたのはそれだけだ。やっぱり僕にはギターしかないのか、そう思った。
 演奏が盛り上がってきたところで、ぶつりと夢は終わった。僕は自分の部屋にいて、僕の顔には泣いたような痕があった。
 いつ以来だろうか、とてもすがすがしい気分だった。僕の死んだ心が再び息をし始めたのを感じた。僕はまたギターを弾きたいと思った。
「もう一度、頑張ってみようかな」
 僕はそう決意した。  
 というわけで、「決意を新たに」というお題で書かせてもらいました。間に合いそうになくて泣きながら書いていたのですが、何とか書き切れてよかった。 inserted by FC2 system