羊の水海

 ユキちゃんはその名に似つかわしくないほどに、黒々とした長く綺麗な髪を持っていた。僕はユキちゃんのその髪が今まで見てきたもののなかで一番きれいなもののように思えてしまって、国語の時間も算数の時間も、体育のときも図工のときもじっとユキちゃんの髪を見つめていた。
 あるときユキちゃんが僕を、特別な授業のときにしか使われない教室に呼び出して、問いただしてきた。
「何でキミ、私のことずっと見てるの?」
 ユキちゃんの声には怒りが籠もっているように感じられて、僕は口ごもってしまった。それでもユキちゃんはじっと僕が何か言うのを待っているものだから、僕は正直に答えた。
「ユキちゃんの髪、とてもきれいだから・・・・・・」
 するとユキちゃんは目を軽く見開き、驚いた表情を見せた。怒らせてしまったかな、気味悪がられてしまったかなと僕の胸のなかで不安が渦を巻いていた。
 数秒の沈黙のあと、ユキちゃんはくすくすと笑い始めた。
「あー、そんなことか」
 ユキちゃんはまだ笑い続けていた。僕は自分が許されたのかわからなくて、ユキちゃんが笑いやむのをただ待っていた。
「じゃあさ、さわってみる?」
「え?」
 ユキちゃんは悪戯っぽい目つきで僕のことを見ていた。僕はどうしたらいいのかわからず、しどろもどろになっていると、
「ほら」
 とユキちゃんは僕の手を取り、自分の頭に持っていた。
 指が黒く細い髪のなかに吸い込まれて、指と指のあいだにいくつもの髪を感じる。ユキちゃんが僕の手をそのまま下ろすと、僕の指が髪のなかを泳いでいるようになめらかにその海を渡っていった。ユキちゃんはそれを何度も繰り返してくれたが、気づくと僕の手からユキちゃんの手は離れていて、ただ僕が自分の意志でユキちゃんの髪を撫でていた。撫でるたびに甘いにおいが漂ってきて、僕は何だかとても幸せだった。
「どう?」
 ユキちゃんは僕に頭を撫でられながら、優しくそう言った。
「なんかとても幸せな気分だよ」
「なにそれ」
 ユキちゃんはくすっと笑って、そのまま後ろに下がって、「もうおしまい」と教室から出て行ってしまった。

 その日から僕とユキちゃんの奇妙な関係が始まった。どちらから言うわけでもなく、あの普段は使われていない教室に行き、僕がただユキちゃんの髪を撫でる。ユキちゃんはその間、目をつぶっていたり、笑みを浮かべながら僕を見ていたりした。
 僕の心には充足感が満ちていて、ずっとこんな日が続けばいいなと思っていた。
 けれどもある日、いつものようにユキちゃんの髪の毛を撫でていると教室のドアが勢いよく開いて、担任の先生が入ってきた。僕がユキちゃんの頭を撫でているのを見ると、その先生はひどく怒った。こんなところで何をしているの、とか、あなたたちは何を考えているの、とか。しまいには先生は僕らの両親に電話で報告をした。
 次の日、学校に行くとユキちゃんが校門の前に立っていた。帽子をかぶって俯いている。
 僕が来たことに気がつくと、ユキちゃんは軽く手招きをして近くまで呼んだ。いつもの様子とは違い、ユキちゃんは震える声で言った。
「ごめんね。髪の毛、切られちゃった」
 ユキちゃんはそう言って帽子をとると、長かった髪の毛がばっさりと無くなっていて、男の子と変わらないぐらい短くなっていた。
「ごめんね。きれいだって言ってくれたのに」
 ユキちゃんはただひたすら、ごめんごめんと謝っていた。
 僕はユキちゃんの髪の毛が短くなって、ショックを受けた。あの艶やかな髪はもうどこにもないのだと、ひどく悲しくなった。けれどもそれより目の前で泣くユキちゃんをまた笑わせてあげたかった。だから僕は一言だけ言った。
「似合ってるよ」
 ユキちゃんは「ありがと」と涙混じりに小さく笑ってくれた。

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