羊の水海

コーラス

 みなさん頑張りましょう!
 先生が透き通るその黒い長い髪を揺らしながら、その言葉を僕たちクラス一同に投げかけた。
 僕たちの通っていた学校では年に一度クラス対抗の合唱祭というものを行う。先生の言葉は僕たちを奮い立たせる目的のものだった。事実、僕はやる気になって精一杯歌った。
 パート練習を何度か行ったのちの、初めての全体練習の直後だった。合唱が終わると先生は僕を名指ししてこう言った。
「君、随分辛そうな声出しているけど大丈夫?」
 僕は思ってもいないその言葉に愕然とした。 僕個人としては上手く歌えていたつもりだった。クラスの皆と上手く調和がとれて綺麗なハーモニーを作り出せているのだとも思った。
  しかし端から聴くと僕の歌声は不協和音のようにしか聞こえなかったらしい。
  それから僕は自主練習を始めた。自宅で自分の携帯電話で歌声を録音し、何度も聴いた。自分の歌声というものはとても不思議なもので、自分の耳がおかしいのか、とても綺麗に歌えているように思う。しかし、それが本当に正しい音程で歌えているのかまったくわからない。僕だけが綺麗に聞こえるだけなのかもしれない、という考えが脳裏をよぎって、僕は繰り返し練習をした。
  事実、僕の悪い予感は当たっていて、合唱の練習のときにクラスの仕切り役のような立場にいる女の子にこう言われた。
 「あのね、真面目に歌う気があるの? ないなら邪魔だから帰ってよ」
  僕はもうどうしていいかわからなくなった。僕なりに必死に努力してきたつもりだったのにそれが報われないんだなんて、酷い話だ。
 僕は藁にもすがる思いで、先生のところを尋ねた。僕が勝手に考えるよりももっと素晴らしいアイデアを出してくれるはずだと期待した。
 上手く歌うにはどうしたらいいですか?
 そう尋ねると先生は少し考えた表情をした挙げ句に、僕の肩に手を置き、取り繕った笑みを浮かべながらこう言った。
「頑張れ!」
 後になって思うと先生は別に音楽の教師でもなかったし、音楽系の部活の顧問でもなかったので、その方面には疎くて合唱に関するどんな質問でも適切な解答ができなかったのだろうか。
 それでも僕は先生のその言葉を胸に「もっと頑張んなきゃいけないんだ」と奮起し、毎日遅くまで自宅で練習していた。時には両親に怒られもした。でも僕は皆と綺麗なひとつのハーモニーを作るために頑張った。そう、頑張ったんだ。
 合唱祭が一週間後に迫った夜、僕は自己練習中に突然声がでなくなった。誰かに教えられたわけでもないので自己流の発声法を毎日行っていたからなのかもしれない。
 それから僕は一ヶ月ほどの間、声を出すことができなかった。合唱祭も僕は自分のクラスの合唱を、観客のひとりとして静かに見ているだけだった。
 僕はあのとき以来、頑張るとは一体何なのか疑問に思った。頑張ったって結局報われるわけじゃない。なのに何故必死に頑張らなくてはいけないんだろう。そのときからずっと僕の頭のなかでは「頑張れ頑張れ」と先生の言葉が呪詛のように木霊している。
 今でも頭のなかで声が聞こえる。僕はその言葉に従いたくなくて無気力な毎日を送っている。
 昨日は一日中何もしなかった。
 ずっとピカソのこと考えてた。
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