羊の水海

植木鉢の少女

 ベランダの植木鉢に部屋で拾った見知らぬ長い髪の毛を植えた。数日後、その植木鉢から奇妙な声がするのに気づき、近寄って見ると髪の毛の束が植木鉢から生えていた。僕はそれを思い切り引っぱるとずるずると子どもの小さな頭が出てきたので、力強く引き抜く。植木鉢で成長していたのはどうみてもただの少女で、六歳ぐらいの子どもの体躯をしていた。この小さい植木鉢にどうやって入っていたのか少し疑問に思ったが、少女がうーうーと言葉にもならない声を発するので腹でも空かせているのだろうかと僕は食事を用意してあげようと思った。冷蔵庫を漁ってみても卵ぐらいしかまともなものが入っていないので、簡単に目玉焼きを作って少女に差し出すと、少女はぱぁと笑顔になって犬のように目玉焼きを食べ始めた。
 さてどうしたものか、とタバコに火をつけながら考える。これははたして人なのか。人だとしてもこんなのどうやって育てていけばいいのか。少女は相変わらず口の周りを目玉焼きの黄身で黄色くしながら食事をしていた。
 僕はふと、僕好みの女性に育て上げることもできるのではないか、という予感がよぎった。

「私たちもうダメね。さようなら。もう会うことは無いわ」
 三年付き合っていた彼女に急にそう別れを告げられたのは、もう半年以上は前だ。赤いワンピースがよく似合う女性だった。僕は未だにそれをうまく精算することができずに精神を不安定にさせていた。僕はずいぶんと彼女に依存してしまっていたらしく、隣を去られると僕の身体がふたつに割れてしまって僕という存在が不完全なものに感じられてしまうようになっていた。
 彼女は初対面のときから僕を気に入ったらしく、出会って間もないころから、毎日のように電話をかけてきた。その内容はどうでもいいような世間話ばかりで僕はひどく退屈なものに思えてしまって、何かと理由を作ってすぐに切ったりしていた。そんな僕にしびれを切らしたのか彼女は僕の家にまで押しかけてくるようになった。僕のために料理を作ってくれて、それがとてもおいしくて、料理を食べている僕を彼女は笑顔で見つめてきた。その瞬間、僕は名前をつけることもできないほどの幸福に包まれていた。あれだけ冷たい態度をとったのに、こんなに優しく接してくれるなんて、もしかしたらこの人となら一緒に人生を歩めるのではないかと思いさえした。そして何となく僕らは恋人同士になり、彼女は毎日僕の家に来て様々な料理を作ってくれた。あのころは一日のほとんどを彼女と過ごしていた。
 彼女は僕に色んなことをささやいた。
「私はもうあなたなしでは生きられないみたい」
「いまとっても幸せよ。生まれてからこんなふうに思えるのなんて初めてだわ」
「私とずっと一緒にいてね。私もあなたから絶対に離れないから」
 僕はそんな彼女の言葉を鵜呑みにして、得意げになっていたのだけれども、そんなときだった。彼女が別れを切り出したのは。それは本当に突然のことで、僕は到底信じることができなかった。
 彼女からその言葉を聞いたときは世界が揺れているような錯覚を感じた。あれ、いまなんて言ったんだ。昨日まで僕を必要としているって言ってたじゃないか。
 僕は必死で彼女に言い寄った。何を言っているんだ。そんなこと気の迷いだよ。僕らはずっと一緒にいるんだろ? そう言っていたじゃないか。突然どうしたんだよ。何か僕に悪いところがあったのか? 何でも直すから頼むから側にいてくれよ。
 僕はそこで初めて、僕が気づかぬうちに彼女に依存していたことに気づいた。
 そうして彼女は僕の目の前から消えた。僕は何度も彼女に電話をかけていたが、いつのまにか無機質な機械音しか流れなくなっていた。

 今もまだ精神は少し不安定だけど、彼女への依存心は消えてくれたようで、今では怒りのようなものが心のなかにふつふつと溜まっていた。あんなに身勝手な女性なんてもう二度と会いたくない。もしかしたら彼女以外の女性も自分のことしか考えていないのではないか、僕のことなど簡単に捨ててしまうのではないかと女性不信に陥った。
 だから僕はこの植木鉢から生まれた少女を、そんなろくでもない存在にせずに僕が思う完璧な女性に育てあげてあげればいいのではないかと考えはじめた。
 少女はまだ目玉焼きをおいしそうに食べている。おいしいのか仕切りにうーうーと声をあげている。そんな小さな目玉焼きをいつまで食べているのだろうかと思うと少し笑ってしまった。
 少女のそんな無邪気な姿を見ていると、僕の頭に浮かんだことがとてもやましいことのように思えてしまった。
 少女を自分の思い通りにするなんて、僕が一番自分本位なんじゃないか。
 少女の汚れを知らなそうな笑い顔を見ていたら、僕は心なしか晴れやかな気持ちになっていた。
 この少女は、僕が大切に育てよう。もちろん自分の思い通りになんてさせなくて、少女の思うがままに生きさせてあげよう。
 僕の不埒なこだわりなんて、この純粋無垢な少女に押しつけるべきではないのだ。
 目玉焼きを食べ終えた少女の口の周りを僕はティッシュで軽く拭いてあげた。
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