試験
中学生のときから試験の前日の夜になると動悸が激しくなり心臓がロックバンドの熱烈なドラム裁きのように鼓動をする。額からは無闇矢鱈に汗が噴き出す。手足も震えてくる。発する声にはすべてビブラートがつく。何故かというと答えは単純明快、僕が日頃から全く勉強というのをしていなく、さらには前日の夜になるまで教科書を一ページも開いたりもしていなかったからだ。毎日こつこつやっておけばいいものを。僕はいつも試験開始があと十時間にも迫る、月も見えないほど暗い夜のなかでノートをめくって少しでも良い点をとろうと必死になった。中学生のときも高校生のときも大学生のときも僕はこの調子で、全てを一夜漬けで乗り切ってきた。そこでずっと頭のなかにあったのは「今こうして必死になって意味のわからない単語や解法を頭にたたき込んでいるけれども、はたしてそれを十年後二十年後に覚えているのか」ということだった。これから先大人になって、中学や高校での試験の結果を僕は覚えているのか。僕はそんなわけはないと結論づけ、どうせ辛いのは今だけなんだからそこまで頑張らなくたって適当にやってほどほどの点数をとればいいのだと、毎回天命のごとく閃き、必死になったのも一瞬、二三時間程度の勉強で事を済ませた。結果的には十年後と言わずに、試験が終了した段階で、前日の莫大な焦燥感は忘れてしまっている。だからいつも同じことを繰り返す。なあなあで過ごしてしまっていたのだ。今になって思うと、そのときの一日一日をしっかりと心に刻みつけて生きていくべきであった、忘れることを前提として日々を乗り越えていくなんて虚しいことなんだといまさらになって気づいた。どうせ今を忘れるから今は見ない振りしてもいい。しかし今は過去になり、未来は今になる。そしてその今も、僕はまた見ない振りをして過ごした。そうして積もりに積もった過去たちはどうなったのだろう。ほら思い返してみようか。うん、僕は何も覚えていないね。だって見てこなかったんだから。僕のなかにある過去は今を捨てて積み重ねた塵のようなものばかりだ。虚無的に自堕落に、半ば自暴自棄気味に過ごしてきた今に何の価値もない。目の前に与えられたものを、全て正面から受け止めて生きていくというのが本来の正しい生き方なのだろう。過去と今と未来の三つで、一番大切なものは今である。過去は思い返すことしかできない。未来は想像することしか出来ない。唯一、今だけを人間は知覚することができる。受け止めることができる。その受け取り方が不完全なものであるのならば、価値のある人生など到底送ることなんてできないだろう。未来には良いことが待ってるだなんて淡い希望を抱くよりも、どうやって今を上手く生きるか、それを考えたほうがいい。僕は不完全な受け取り方が染みついてしまっているようで、現在の僕もすべてはどうでもいいことなんだと夢のなかにでもいるように生きてしまっている。まだ考え方を変える道はあるのだろうが、それを正しいものに置き換えるのには長い年月が必要となりそうだ。