羊の水海

寒い

 ネットなんかには「三浪目となるともう余裕が出てきた」と人生に対する諦めともとれる文章が投げられていたりする。僕は同じ三浪ではあるけれども、そういう人たちと違ってひどい焦燥感に駆られていた。今度こそ決めなくてはいけない。
 なぜ僕はこんなことになってしまったんだろうと随分前から度々発作のように悲しくなる。現役のときだって志望校の判定はAだったし、一浪のときも二浪のときも十分に合格する範囲内だった。センター試験も二次試験でよっぽどの失敗をしない限り大丈夫だという点数もとれていた。それなのに何故三浪もする羽目になってしまったのかというと、僕は毎回二次試験のときに突如意識が失うように夢の世界に落ちてしまっていたからだ。現役のときは徹夜で勉強していたことが原因かと落ち込んで、一浪のときには十分に睡眠をとって臨んだが、またブラックアウトしてしまい、気づいたら僕の前にはほとんど白紙の解答用紙が儚げに置かれていた。いよいよこれは何らかの病気なのでは、と病院に行くと医者は「プレッシャーに非常にに弱いのかもしれません」とだけ言って、薬をいくつか処方してくれた。次の年はきっちりと薬を飲んで試験に向かったが、結果はご覧の有様。高校でも優秀なほうだったのに、どうしてこうなってしまったのか。
 そんな情けない僕に母親は優しい言葉をかけてくれた。
「大丈夫。あなたが頑張っているのはわかるから。また次頑張ればいいじゃない」
 その言葉でさらに僕は悲しくなってしまった。こんなにも気にかけてくれているのに、僕は何も返せてはいない。次こそは、と僕はこの一年更に勉強し、きっちりと睡眠のバランスも整えて試験に向かうことにした。
 センター試験も無事に終え、前日にきちんと睡眠をとって迎えた二次試験前日。玄関で僕を見送ろうとした母親が小さなトートバッグに入った弁当を差し出してきた。母親はいつも試験当日になると気合いのこもった弁当を差し出してくれる。僕はその弁当を受け取って、今年こそは絶対に合格して母親を喜ばせてやるぞと意気込んで家を出た。
 試験会場である大学には電車で行く。電車に乗り込むと車内には制服を着た学生たちが真剣な面持ちで参考書なんかを見つめていた。おそらく僕と同じ大学の試験を受けに行くのだろう。僕もカバンから単語帳を取り出して、こぼれたところがないようにチェックしていた。
 数十分電車に揺られると目的の駅に着いたが、僕は英単語を頭のなかに入れることに没頭してしまい、電車が駅に着いたということにすぐには気づかなかった。さっきまで騒がしかった車内から物音がなくなったことに気づいて顔をあげて、そこで初めて駅に着いていたということに気づいた。僕は急いで電車から降りて、大学に向かうバスに乗り込んだ。
 目的の駅が終点でよかったなあ、と安堵していると、僕は電車のなかに弁当を忘れたことに気づいた。トートバッグに入っていたのでカバンには入れずにずっと手に持って、電車で座っているときは側に置いていたのだけれど、急いでいるあまり忘れてしまった。僕の合格を願って母親が一生懸命作ってくれた弁当。申し訳ないことをしてしまったと、胸が苦しくなった。
 バスが駅に止まり、まだ少しだけ時間があったので近くのコンビニでおにぎりをふたつ買った。流石に何も胃に入れないと頭も働いてくれないだろう。
 そうして臨んだ試験は好調な出だしだった。午前中は睡魔を感じることもなく、しっかりと勉強していたおかげで手が止まることなく問題もすらすらと解けた。
 しかし肝心なのはここからだ。僕は昼休みを過ぎて午後の試験でいつも眠ってしまっていたからだ。昼休みはさっき買ったおにぎりを食べながらしっかりと意識を保つために、だらけず集中状態のまま過ごした。
 午後の試験が始まって、僕は眠るな眠るなと自分に言い聞かせながら試験を受けた。そのうち、いつの間にか問題が全て解き終わっていた。僕はその重大な事実に初め気がつかなかった。あれ、僕はちゃんと問題を解くことができた? 眠ることなく試験に立ち向かうことができた? 次第に僕の心のなかには達成感に満ち始めた。やった、僕は自分に打ち勝つことができたんだ。プレッシャーになんか負けない強い自分になることができたんだ。僕は何だか自分がとても誇らしく思えてしまった。
 達成感の塊になった僕は帰りの駅で弁当の忘れ物がなかったかを尋ねると、駅が保管してくれていたので、受け取ることができた。
 電車に揺られながら弁当を食べた。せっかく作ってくれたんだから食べなければいけない。僕はすがすがしい気持ちで弁当を食べ終わった。
 気がつくと電車は終点の駅で停車していた。僕の家の近くの駅はとうに過ぎている。
「君大丈夫かい? ちゃんと帰れる?」
 どうやら駅員が起こしてくれたようで僕は大丈夫と立ち上がろうとしたところ、足がもつれて転びそうになってしまった。
 心配そうに見つめる駅員の横を通りすぎて僕は戻りの電車に乗るためにホームのベンチに座った。
 もう真夜中だ。雪がしんしんと降っている。
 何だか頭がもやがかったように重い。視界がふらつく。風邪でも引いてしまったのかとも思ったが、この感じは僕が毎回二次試験を受けていたときに非常に似ている。あのときもこんな風に正常に思考が働かなくなるように頭が重くなった。
 でもなぜ今更? 試験は無事に終えたはずだ。プレッシャーからはもう開放されていた。なのになぜ・・・・・・。
 僕は手に持っていたトートバッグを見る。空になった弁当箱がそこには入っている。
 おぼろげな頭でそう考えていると、ふとずっと昔のことを思い出した。
 僕が小学生のときに母親が言っていたことだ。
「あなたはいつまでも私の子供だからね。いつまでもそばにいるから。あなたも離れないで私のそばにいるのよ。大人になんてならなくていいからね」
 そういえば母親はいつも僕のことを気にかけてくれていた。過剰なほどに僕のことを。
 弁当。異常なまでの睡魔。過保護な母親。
 僕はあるひとつの仮説が思いついて、背筋が寒くなった。
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